香り

人間の感覚のうちもっとも表現しにくいのは嗅覚かもしれないが、ここ数日は何かと嗅覚が敏感だった。
香りについて書いてみようと思う。

一昨日、自動車を走らせている途中に窓を開けると、春の香りが流れ込んできた。
それは日光で温められた土の香りというべきか、萌え出る草木の香りとでもいったらいいのだろうか。
僕は音楽を流して、しばらくその匂いを感じていた。

多くの場合、その香りは人々を明るく、前向きな気持ちへと誘うだろう。そこに季節が一回りした実感、何かが始まるんだという予感、可能性の示唆が含まれているからかもしれない。
例外は小説『ノルウェイの森』の主人公にみられる。彼の手の内からは次々と大切なものが消えていき、行き場のない憂鬱はやがて失意へと変わっていく。そして1969年の春、今度は彼は恋人を喪おうとしていた。

『僕は部屋に入って窓のカーテンを閉めたが、部屋の中にもやはりその春の香りは満ちていた。春の香りはあらゆる地表に満ちているのだ。しかし今、それが僕に連想させるのは腐臭だけだった。僕はカーテンを閉め切った部屋の中で春を激しく憎んだ。僕は春が僕にもたらしたものを憎み、それが僕の身体の奥にひきおこす鈍い疼きのようなものを憎んだ。』



香りといえば、美術館でセザンヌの絵を見た。

セザンヌは感覚を追求した画家だと言われているが、彼の林檎の質感はあまりに生々しいのでエロティックでさえある。
彼の手によって描かれた故郷の山や静物、自然は、見る者に強い既視感を与える。

例えば彼が描いた故郷の絵の前に立ち、しばらく眺めていると、その絵画は時間を伴って動き出す。
木々は風に吹かれ、水面がゆっくりと揺れ、鳥の囀りが聴こえてくる。
季節は春である。エネルギッシュな緑、湿り気をおびた赤土の大地。仕事を終えた人々が家路につく。
だが大きな雲が山の向こうからゆっくりと現れくる。雲はやがて太陽を覆い、町に冷たい雨を降らせるだろう。
このように絵画の世界に入り込んでしまうと、ふと湿った大気の香りが漂ってくる気がする。

このようにセザンヌの絵画は、彼がかつて感じたであろう日常の美しさ・儚さを、既視感にも似た確かな手触りをもって、他者に提供することができる。まれではあるが、視覚刺激は香りの幻覚を伴うことがある。彼の激しい創作意欲が、ついにそれを可能にした。
これは図録では決して分からない。彼の遺した実物に対峙して、初めて知りえたことである。



最後に唐突だが、死にも確かな香りがある。死にゆく者が発する微かな香りがある。
その香りを医学的・科学的に分析することはおそらく可能だと思う。でもそのような分析は我々に何も語ってはくれない。

僕は死を観念的に捉るきらいがあるが、それは僕はまだ死が何なのか分かっていないからだと思う。
けどその香りは確かな感覚として、リアルな実感として、死が何たるかを、死の一側面を、力強く示している様にも思われる。

遺された者たちは、死者が経験することができない日々を生きていかなければならない。
だから死から目を逸らさず、半端なルールに従うことで思考放棄することもせず、しっかりと感じ考えるのが使命だと、自分に言い聞かせている。

少年老い易く。

明日から仕事です。エイプリルフールのネタでもなんでもなく、本当に明日から仕事です。
長かった学生生活。ようやく定職を持つことが出来ました。

ところで仕事仕事という前に、6年間の生活を、学業の点から短く振り返ってみたいと思います。
恥ずかしい話ですが、国家試験を合格した今でも「勉強したなあ」という手応えがないので、医学について僕は何も語る資格はありません。
そんなわけで、6年間を通して漫然と取り組んできた、読書について再び書いていこうと思います。

これはもう、『少年老い易く学成り難し』という有名な格言につきます。流石にもう少年ではありませんが。

自分は昔から読書が好きで、一応【大学では19世紀以降の世界文学を読もう】というテーマを1年生の時に設定し、以降6年間学業そっちのけで文学中心に読み漁っていたのですが、余りに適当に設定されたテーマだっただけに、これはもう地図を持たずにうろうろしていたようなものでした。
興味の赴くままの読書は確かに楽しく、それによって様々な世界を知ることができ、『悪霊』『巨匠とマルガリータ』などの素晴らしい文学に出会えたのは本当に幸福なことでしたし、ある意味これらの作品が僕にとっての大学でした。しかし他者に何かを提供できないのならば結局のところ道楽の範疇を超えない、ということにも時の流れとともに気が付いてしまいました。残念ながら。

具体例を挙げるとすれば、
「あなたはドストエフスキーの小説をずいぶん読んだようだけれど、ロシア革命ドストエフスキー文学の関わりについて何か教えてくれませんか?」
ミハイル・バフチンの唱えたポリフォニーとカーニバル文学は、その後文学界にどういった影響を与えたのでしょう?」
と聞かれたら、僕はたちどころに答えに窮すると思います。つまりは、そういうことです。

これは僕が考える教養のカタチとは全然逆でした。そして「なぜオレはあんなムダな時間を…」という某バスケ漫画の1シーンが頭に思い出されるわけです。

そしてこういう読書のあり方を続けていくようなら、何の見返りもなくたんまりと時間を提供してくれた過去の自分に対して、責任感が乏しいと感じました。
仕事が始まると、無駄な読書をしている時間などあるのだろうか、という危機感が少々でてきたせいもありますが…。

なので今後は乱読を控え、方向性を持った読書をしていきたいなーと思いました。
まあこれは読書に言えたことではなく、学問一般にも言えるのかなと。

こんなことを、「ああ、俺ってなんて真面目なんだろう」と、アイスを食いながら考えていたわけです。



しかしここで疑問を持たれる方もいるかもしれません。乱読ってそんなにいけないことなのか、と。

事実自分という人間の知識は、乱読によって多方面から寄せ集めたフラグメントがモザイク状に組み合わさることで成立してきた(気がする)のです。そういった知識のあり方には、ある程度、強みがあるにはあると思います。
読書はもう学校の勉強なんかでなく、大切な趣味の時間なんだから、そんな風に縛り付けるのは「自由」を奪うことに他ならないんじゃないか、とも言えます。

まあこの辺は、実際のところよく分かりません。でも、仏語習得やテニスの練習や医学の勉強ではなく、他ならぬ「読書」という(極めて曖昧な)行為によってある方面の自己変革と成長を望むのならば、それは少々呑気なスタンスだったかもしれません。
乱読によって教養を身につけることは、ほぼ不可能なんじゃないかと僕は結論しました。というか、僕にとっては、無理でした。
無理というか、いろんなところにゴツゴツと頭をぶつけながら本を選んでは読んだ(そして引越しで大量に処分した)結果、そういう結論が導き出されました。

「何を当たり前のことを」という感じかもしれませんが、本を読むという行為はもはや自分の生活の根幹をなす行為だっただけに、というかそれだからこそ、そこに潜んでいた自己欺瞞に気が付きませんでした。完全に言い訳ですが。


そのうえ、読書にかまけて本業の医学を疎かにしていたがために、ある意味で非常にもったいない時間を過ごしてしまったとも感じています。
それで漠然と過ごした6年間を振り返って、『少年老い易く学成り難し』だったよなあ、と感じるわけです。

大学を卒業した自分にとって「次」がいつかは分かりませんが、もうこういう反省はしたくないものです。
でも、理屈だけでない確かな手ごたえのある、自分にとっては大事な発見でもあります。

ずいぶんと抽象的な話になりました。話に具体性が欠ける傾向っていうのも、あんまりよくないですね。
というわけで、明日から張り切っていきたいとおもいます。

再開のお知らせ/ペンとノート

今と同様、去年の秋も今年の冬も、言いたいことは色々あったので、特にブログのネタに困っていたという訳ではないんですが、2月中旬に予定された鬼畜的試験の対策を練らなければならなかったので、長いコト勝手にお休みしていました。一度書きはじめると、どういう訳か投稿するのにかなり長い時間をかけてしまう癖もあったので、まあ当分は無理だろうと、悠然とサボっていました。


それでテストが終わった後に会った何人かの友達に「もうブログやらないの?」と聞かれたのをきっかけに、そろそろ再開しようと思いました。
僕にとっては意外にも、このブログは何人かの親しい人々にちょっとは読まれていたらしく、それを知ることができただけで、計り知れぬほどの十分なモチベーションになりました。
今後も暇を見つけて書いていこうと思いました。本当にありがとうございます。心機一転スタイルも少し変えてみました。


今年の春からは新天地(?)で働くため、会えなくなる人々もいます。元気でやっているよ、という便りだと思って読んでくれたら幸いです。
一応はFacebookTwitterもやっていますが*1、自分はやはりテキストベースが最も性に合っている気がします。
どうでもいいこと、くだらないこと、役に立たないことを中心に書いていくと思いますが、どうぞよろしくお願いします。




とまあこんな感じでブログを再開しようと思っているわけですが、それとは全く別に、最近はペンと紙で考えたことを整理しようと思っています。
代官山とかのカフェで木漏れ日を浴びながら、コーヒー片手にMacBookAirでスマートに情報発信できれば、そりゃカッコいいですけどね。
しかしどうも目が疲れ、頭が痛み、肩が凝るので、もう付き合いきれんわ/余計な疲労は回避しよう/医療人の健康が第一と思い、あえて古典的な手段に回帰しようと思っています。

完全に時代の趨勢に逆行していますが、まあいいでしょう。そんなに急いで何処へ行きたいわけでもない。


でもまあ、やはり自分は書くことによって思考する類の人間なので、とりあえず読書ノートと日記を用意しました。

読書ノートには、自分が読んで疑問に思ったことや関心を持ったこと、感動したことなどをメモって、それについて自分がどう考えたかを書いています。この間丸善で立ち読みしていたら偶然知ったのですが、19世紀のどこぞの知識人もこの方法を採用していたようです。僕なんぞ遥かに及ばないほどアグレッシブな読書ノートでしょうけど、シンプルが一番ですよね。

日記も高校生以来の再開です。もう書けないかと思いましたが、無意識的には色んなことを考えていたらしく、今のところは書き澱むこともなく、日々起こった出来事について淡々と感想や反省を書き記しています。
日記に関しては備忘録的にしばらく書いているうち、だんだんとスケジュール帳としての機能も帯び始めてしまい、本来の在り方から段々とずれてきています。かといって手帳を1年間使い切ったことの無い僕なので、まあ手帳は買わずにこのまま行こうと思います。

しかしノートを広げてペンを持ち机の前に座っていると、情報を整理して何かを考える時間、それが僕にとって必要だったのかもしれないと思いあたりました。
古くさくはありますが、Wordやブログにはない気楽さと自由度がある気がしますし、実際はそれで十分だったのです。
此処から何が生まれるのかは謎ですが、十分だと思えるまでは、しばらくこのペースで24歳なりの思索を重ねていきたいと思います。

ところで、経験上、ブログを書きすぎると自分の頭で何かをゆっくり成熟させる時間が極端に短くなる予感がします。
『作家はまず何より自分の為に書く』というドストエフスキーの言葉ではないですが、まずは日記と読書ノートを充実させるのが当面の目標です。卒業と就職を機に真剣に考えたのですが、自分は余りにもモノを知らなすぎ、あるいは考えなさすぎたので、もう一度大学に入るつもりで色々と勉強していきたいと思います。そこから出てきた何かを、このブログに載せていけたらなあと思います。

なにか最後くらい面白い動画でも載せておきます。
電気グルーヴは音楽的に深い気がしてならないのですが、なぜか世間の目を気にしてしまい、自信を持って紹介できない弱い自分が情けない。

ではでは。

*1:しかし昨今の自己顕示欲拡散ツールには本当に参ってしまいますよね。
もう面倒なので全部止めてしまおうかとさえ思っているのですが、なんとなくやめにくいのは何故でしょう。

星に帰る

Coldplayに『The Scientist』という曲がある。

なかなか素敵な歌なのだが、最初にこれを聴いたとき

I'm goin' back to the star

というフレーズが出てきて、なんと幻想的な歌なんだろうと思い、惚れ惚れした記憶がある。
恋人との気持ちが通じ合わなくなった男は、とうとう星に帰ることに決めたのだ…。
などと勝手にそういう風に解釈して、そのまま納得していた。

しかしいくらColdplayといえども、前後のコンテクストからして星が出てくるのはあまりにぶっ飛んでいたように思えたので、歌詞検索をしてみたら

I'm goin' back to the start

ということだった。なんのことはない、startのtが聞こえなかっただけなのだ。始めからやり直そう。そういう意味だ、多分。
これを知った時いささかがっかりした。だって星に帰った方が、インパクトが10倍くらい違うじゃないか。

ついでだけど、この歌はこないだ友人に連れて行ってもらったフジロックで生で聴いた。いやー、あれはよかったですね。
さすがにあれを聴いた後は、starの方がいいのになどとはもう思わなくなった。
あのときはとにかく大粒の雨が降っていて、ヴォーカルのクリス・マーティンが「大丈夫?」と心配してくれたが、あれは楽しいライブだった。
無数のカラフルな風船が降って来たりしてね。さすがはColdplayである。

個人的にはLovers in Japanも演奏してほしかった…。
これを聴くといつも、ソフィア・コッポラの映画『Lost in translation』を思い出す。そういえばあの映画のサントラも結構いい…などと話し始めるときりがないのでこの辺でやめておこう。


まあそれはともかく、星の話に戻ろう。僕は星なんて全然眺めないし別に好きでもない。
けれど小説とか詩に星が出てくると、その瞬間になんだか視点が一気に広がる気がして結構好きだ。

ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』で、スーツを着た悪魔と神経症にかかったイワンが議論する場面がある。
聖書によればかつて悪魔は砂漠とかで聖人を誘惑していたのだけれど、それについて悪魔が『ああいった聖人たちは、ひょっとすると星座ひとつほどの価値がありますからねえ』といったことを言う。でも今は時代が変わっちゃったから、こういうちゃんとした服装をしているんだよ、みたいな愚痴も言う。
ドストエフスキーはときどきこんな風に、随所に幻想的な表現をさらりと使う。『認識の頂点』だとか『稲妻と轟音と共に天使が舞い降りて、ホサナを歌う』とかね。
あるいはドストエフスキーの信仰したキリスト教がそういう世界観を含んでいるというだけかもしれないが、だとしてもああいうマテリアルの使い方が上手い。
とにもかくにも、こういうアクセントが効いたセリフが結構好きである。


星と言えばradioheadの曲に『Black Star』というのがある。

全部あの黒い星が悪いんだ…といった歌である。
詩は中々陰鬱なんだけど、そのメロディにはどこか爽やかさというか、あるいは開き直ってしまった絶望というか、もう歌にするしかないやるせなさのような色々が含まれている…気がする。
そのビターな雰囲気が心地よくて、これも去年恐ろしいほどの回数聴いた。

Blame it on the black star
Blame it on the falling sky
Blame it on the satellite that beams me home

うーん、いいですね。

それは急な坂道を登りつめるように

世の中には色々な小説があるけれど、クライマックスまでの「登り詰め方」がすばらしい小説というのは、やはり僕にとって優れた小説だったんじゃないかなと思う。

個人的にすごく印象的だったのはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、村上春樹の『ノルウェイの森』、ガルシア・マルケス『愛その他の悪霊について』の三つ。
そんなに小説をたくさん読んでるわけではないから偉そうなことは言えないが、とにもかくにもこの三つの小説は文句なしに面白いと思う。

どちらとも、後半に差し掛かるにつれて読者を置いてけぼりにするほどの勢いで、ぐんぐんとストーリーが捻じれていく。
あたかも急な坂道を登りつめるような感じである。
「残りのページ数これだけしか残ってないけど、この後どうなるんだ??」と思う。
しかしあるべき筋なんてものは、遥か遠くに消えてしまっていて、ストーリーそのものがまるで生き物のようにどんどんと奇妙な方向へとずれていく。そして突然に終わる。

個人的には、こういう奇妙な捻じれ方をしていったあげく、ぶつっと終わる小説に巡り合えると結構嬉しい。偏愛しているし、そういう小説はいつまでも覚えている。
なんでだろう。おそらく一種のエクスタシーなのだろう。ポジティブフィードバックというか、LHサージというか。
まあとにかく、こういう話は結構好きだってこと。

小説には読み手の意識をどこか遠いところまで連れて行ってほしいし、僕が本屋に立ち寄るときはそういう期待がある。
神がどうのこうのとか愛がどうしたというのは、後でいい。まず面白さありきである。終わりのないジェットコースターで、遠くまで連れてって欲しいのだ。
いや、まあ、少なくとも僕にとってはだけど…。

思い返してみれば、昔は幸せだった。小学生や中学生の時なんかは、何を読んでも<どこかへ行けた>感じがした。それだけのめり込めたし、夢中になれた。

高校一年生の夏の夜中に読破した『ノルウェイの森』、いまでもあの時のことを覚えている。とにかく物凄い衝撃だった。
心に染み渡るようにすっと入ってくる文章の平易さと美しさ、そしてあのクライマックスのねじれ感・非現実感。
それまで少しは小説を読んでいたけれど、あれほど凍りつくような体験は一度もなかった。小説ってここまでできるのかと、無学な僕は目が開かれるような気がした。

カラマーゾフの兄弟』。これも高校三年生の時から少しずつ読み続けて、『カラマーゾフ万歳!』とコーリャが叫んだのは僕が大学一年生の春、明け方のベッドの上であった。
あれもよかった。これについては言うまでもない。

『愛その他の悪霊について』は、友達から借りていた本で、一人旅をしているときに電車の中で読んだのだった。
最初の幾つかの退屈な章を乗り越えたらやたら面白くて、とにかく夢中で読みまくった。仙台から福島を経て、宇都宮あたりで読み終わったのだ。
あのときの興奮といったらなかった。始発駅から終点までひたすらガルシア・マルケスの世界にのめり込み、ろくすっぽ景色なんて見ていなかった。
終点についたらホームを走って急いで次の電車に飛び乗り、すぐにまたページを開くのだ。あの旅行は楽しかった。

そういえばあの日東京駅で買ったカズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』も、なかなか面白かった。
お金が無かったから、コーヒー一つ頼んで、新宿のマックでぶっつづけで徹夜で読んだのだった。あの話のねじれ感も、また他の作家とは違った味わいがある。

やはり想像力というのは非常に面白いものなのだなと感心する。
なんつーか、あらかじめ敷かれたレールを外れたときに、想像力というのは、まあ主に芸術方面だけど、一番輝くんじゃなかろうか。
人の営みというか、人間の能力のすさまじさみたいなものを、そこに見出さずにはいられない。

無理やり繋げるけれど、最近はまっているツェッペリンのライブのCDも、予定調和を超えたところにあるステージ上の4人の化学反応みたいなものがもう凄まじい。
何度も何度も繰り返し聴いているが、まだ飽きない。

まあ…なんというか、酒を飲みながら文章を書くってなかなかいいですね。
僕は音楽をやらない人間だけど、もしできたら酒を飲みながらほろ酔い気分で演奏してみたい。
その代わりと言っちゃなんだが、自分はこういう風にキーボードを叩いて気晴らししているんじゃないかと思うときがある。
なんの意気込みもなしに思いつくままにただひたすら文章を書くっていうのは、けっこう面白い。

夜に酒を飲んでしかもPCとか、熟睡指数を大いに下げているが…まあ今から寝るか。

事実は小説より奇なり

さてマッチングの試験やら面接も昨日をもって無事に終了したので、いくらか肩の荷が下りた。これからは卒試シーズンであるのでより一層勉強に励む所存であるけれど、その前に少し書き残しておきたいことを書いておくことにしよう。

今年の夏もっとも面白かった本、それはもう疑う余地なく『眠れない一族』であった。

眠れない一族―食人の痕跡と殺人タンパクの謎

眠れない一族―食人の痕跡と殺人タンパクの謎

この本は少々医学知識が求められるのでとっつきにくさがある感は否めないが、それでも予備知識ゼロで予断を持たずに読むのがいいと思う。ずっと昔に埋もれてしまっていた知的好奇心が久しぶりに刺激された。これこそページ・ターナー(次々とページをめくらせる本)だったと言っても過言ではない。

『眠れない一族』の魅力を紐解く前に、優れた本とはどういうものか少し触れてみたい。優れた本について考えるとき、よく僕が思い出すのは下の三つの言葉だ。

●『小説とは書いてあることよりも、書かれ方が重要である』(大江健三郎
●『詩とは陶酔である』(丸谷才一
●『物語というのは丸ごと人の心に入る。即効性はないが時間に耐え、時と共に育つ可能性さえある』(村上春樹

優れた本というのはページを開いた読者を異世界に引きずりこまねばならないし、また最後のページまで彼らを導く技術が必要である。正直書いてある内容は二の次だ。読んでもらえなければどんなに優れたことが書かれていても本としては用をなさない。
その一つの原動力として、文章の巧みさと物語の構成力が求められるだろう。優れた芸術は人を陶酔させるというのは言い得て妙である。
また再読に値する本に巡り合えた読者は幸せである。何度読んでも新しい発見がある本、それが優れた本であると僕は思う。時間に耐えるとはそういうことだろう。

以上はいずれも小説や詩の世界について語られたことであって、本作品のごときプリオン病をめぐるノンフィクションにその条件云々を当てはめるのは筋違いだろうと思う。
しかしどういう訳か、『眠れない一族』は以上の条件をあっさりと満たしてしまっているのだ。(時間に耐えられるかどうかは分からないが、おそらくは幾つかの普遍的な教訓があると思う)

読者はプリオンという謎を巡る様々なストーリーを、時空と国境を超えて目撃することができる。
イタリア、イギリス、パプアニューギニアアメリカ。章の構成が非常にドラマチック、そしてリズミカルである。
めまぐるしくスイッチする舞台と登場人物は、さながらフォークナー、いやガルシア・マルケスの小説を読んでいるような気分になる。
プリオンという謎を中心にした縦の糸(歴史)と横の糸(同時代での他国での出来事)を上手に描き出すことに成功している。
古代から世界を静かに侵食していたこと、そしてそれは人類にどのような病をもたらしてきたのか、謎が明らかになるにつれ、読者は大きく揺さぶりをかけられるだろう。

またその中心となる致死性家族性不眠症という奇病をめぐるドラマチックな人間模様、これも実に魅力的だった。
物語は18世紀のイタリアから始まる。200年以上にわたり一族が苦しめられ、やがて病に立ち向かっていく様子が仔細に描かれる。
同時にわれわれは科学、ことに医学がどのように発展してきたのかを目撃することにもなるだろう。
そこには決して英雄はいないし、マッドサイエンティストのような輩まで出てくる。
だが読者は数多くの科学者達が成す地道な努力が、プリオンという巨大な謎を徐々に明らかにしていく様子を追体験するだろう。これは非常にスリリングである。

そして筆者の歴史・文化に対する造詣も生半可なものではない。それがこのノンフィクションの様々な挿話を鮮やかに彩り、物語全体の構造を見事に引き締めている。
イギリスにおける羊の交配の歴史やその時代背景。パプアニューギニアの民族文化や言語、イタリアにおける医学の発展、そして狂牛病を巡る世界(とくにイギリス)の動向。
こうした手抜きがない仕事は、読者を幾分辟易させてしまうのが常なのだけれど、彼は絶妙なバランスでそれらの逸話をまとめ上げる。話の流れを決して遮りなどはしない。驚くべき勉強量、そして手腕である。

此処まで来てもはや言うまでもないが、全体的に非常にバランスが取れていて、文章のうまさも絶品である。その質を保ちながら、これほどの情報量を一人でまとめ上げて書き著すのに、どれだけの労力がいることだろう。しかも筆者自身もある神経疾患に罹患している病身なのだ。もうひたすら圧倒された。

この本はあくまでノンフィクションであり小説ではない。まあ「事実は小説より奇なり」ともいうけれど、ここまで物語のうねりが凄い小説というのは中々お目にかかれない。
それに事実を小説のごときストラクチャーに落とし込み(一見ばらばらに思われる様々なストーリーがクライマックスに向けて集約していく構造は、確信犯だと思う)、それでいて見事に成功している例はなかなか無いのだ。そういう点でも、この本は非常に優れていると思われる。

というわけで、もしよかったら是非読んでみてください。



…どうでもいいけれど、『眠れない一族』のおかげで読書スイッチがオンになってしまったので、今はガルシア・マルケスの『百年の孤独』を読んでいる。

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

大学入学したときくらいからずっと友人に散々すすめられていたが、卒業間際にようやく手を付け始めた。『コレラの時代の愛』『愛その他の悪霊について』とかは読んだのだけれど、どうしてもこの本は興味をそそられなかったのだ。

でも『眠れない一族』に『百年の孤独』に登場する伝染性不眠症が言及されており(あの作者はこんな分厚い小説も読んだのか。凄まじい勉強量だ…)、これは読むっきゃないと思い近所のビレッジヴァンガードで購入した次第です。

これもマコンドという架空の町に住むある一族について書いた小説であるけれど、似たようなモチーフでありながら、小説とノンフィクションではこのようにアプローチやディテールが違うのかなどと、優れた小説と優れたノンフィクションについて色々比較したり考えたりしてそこそこ楽しんでいます。

さて勉強するか。

サウンド・オブ・サイレンス

家の近所の小さな飯屋で冷やし坦々麺を食べてきた。待っている間に、こんな本を読んでいた。

飯沢耕太郎『写真を愉しむ』岩波新書

写真を愉しむ (岩波新書)

写真を愉しむ (岩波新書)

かなり前に読んだ本だけど、久々に読んだら写真が撮りたくなってきた。この本は肩に力が入っていなくて、中立的ですこぶる読みやすいが、かといって淡白でもない。
写真への静かな愛情がひしひしと伝染する。

僕自身が写真を始めたのは大学生になってからだが、写真のことは何も知らずに部活に入ってしまったので、最初は色々な写真家の作品を見て勉強した。
写真展がやっていれば出かけて観に行ったし、写真集も何冊か買った。この本も、その一連の流れで勉強のために買ったものだ。当時は写真をよく撮った。

その過程で見つけた多くの印象的な写真家のうち、すぐに名前が挙がるのは、荒木経惟アウグスト・ザンダー植田正治だ。三人のスタイルに共通点は殆ど無いけれど、彼らの人物写真は実に魅力的だと思う。僕も彼らの作品に触発されて、人物写真を好んで撮るようになった。まあ当然、あんないい作品は撮れてないんだけど。

特に荒木経惟は凄いと思う。この人の作品は一見エロいので敬遠されがちだが、まあ確かにエロいけど、エロスの奥に蠢く生命を表現しようとする技術と哲学は一級だと思う。

今更僕が何を語れるわけでもないが、この人が人物写真を撮るとそう感じずにはいられない。しかも不思議なことに、だんだん人間とか人生について考えさせられる。
そういうのが才能だと思う。優れた才能とは、人の心にすっと入り込み、有無を言わさず圧倒的にねじ伏せ屈服させてしまう、暴漢のようなものかもしれない。



ところで来年の春には卒業してしまうので(予定)、もう暗室で現像作業ができなくなる。
これはまったく、心残りでならない。人生の大きな損失であるといっても過言ではない。

暗室は究極の箱庭だと思う。闇の中でひたすらに何かと向き合い続けるあの時間。
ライトを消して作業を進めていくうちに、自分が何処にいるのかが怪しくなってくる。
すると次第に現像や印刷という単純かつ複雑な暗室作業が、やめられなくなってしまうのだ。まるで閉じ込められてしまったかのように。

ふと気が付くと、暗室には僕しかいないはずなのに、いつも何かが闇の中に息づき始めている。
だけどそいつは暗闇にしかいられないから、電気を点けさせないように、ひたすら人に写真を焼かせ続けるのだ。

アレはなんだったんだろう。だけど、ときどき無性にあの闇の中に戻ってしまいたくなる。

暗闇で黙々と写真を現像していた時間も ―まさかそんな大学生活を送るとは想像もしてなかったけど― 悪くなかったなあと思う。

というわけで、ベタにサイモン&ガーファンクルです。ではまた。