香り

人間の感覚のうちもっとも表現しにくいのは嗅覚かもしれないが、ここ数日は何かと嗅覚が敏感だった。
香りについて書いてみようと思う。

一昨日、自動車を走らせている途中に窓を開けると、春の香りが流れ込んできた。
それは日光で温められた土の香りというべきか、萌え出る草木の香りとでもいったらいいのだろうか。
僕は音楽を流して、しばらくその匂いを感じていた。

多くの場合、その香りは人々を明るく、前向きな気持ちへと誘うだろう。そこに季節が一回りした実感、何かが始まるんだという予感、可能性の示唆が含まれているからかもしれない。
例外は小説『ノルウェイの森』の主人公にみられる。彼の手の内からは次々と大切なものが消えていき、行き場のない憂鬱はやがて失意へと変わっていく。そして1969年の春、今度は彼は恋人を喪おうとしていた。

『僕は部屋に入って窓のカーテンを閉めたが、部屋の中にもやはりその春の香りは満ちていた。春の香りはあらゆる地表に満ちているのだ。しかし今、それが僕に連想させるのは腐臭だけだった。僕はカーテンを閉め切った部屋の中で春を激しく憎んだ。僕は春が僕にもたらしたものを憎み、それが僕の身体の奥にひきおこす鈍い疼きのようなものを憎んだ。』



香りといえば、美術館でセザンヌの絵を見た。

セザンヌは感覚を追求した画家だと言われているが、彼の林檎の質感はあまりに生々しいのでエロティックでさえある。
彼の手によって描かれた故郷の山や静物、自然は、見る者に強い既視感を与える。

例えば彼が描いた故郷の絵の前に立ち、しばらく眺めていると、その絵画は時間を伴って動き出す。
木々は風に吹かれ、水面がゆっくりと揺れ、鳥の囀りが聴こえてくる。
季節は春である。エネルギッシュな緑、湿り気をおびた赤土の大地。仕事を終えた人々が家路につく。
だが大きな雲が山の向こうからゆっくりと現れくる。雲はやがて太陽を覆い、町に冷たい雨を降らせるだろう。
このように絵画の世界に入り込んでしまうと、ふと湿った大気の香りが漂ってくる気がする。

このようにセザンヌの絵画は、彼がかつて感じたであろう日常の美しさ・儚さを、既視感にも似た確かな手触りをもって、他者に提供することができる。まれではあるが、視覚刺激は香りの幻覚を伴うことがある。彼の激しい創作意欲が、ついにそれを可能にした。
これは図録では決して分からない。彼の遺した実物に対峙して、初めて知りえたことである。



最後に唐突だが、死にも確かな香りがある。死にゆく者が発する微かな香りがある。
その香りを医学的・科学的に分析することはおそらく可能だと思う。でもそのような分析は我々に何も語ってはくれない。

僕は死を観念的に捉るきらいがあるが、それは僕はまだ死が何なのか分かっていないからだと思う。
けどその香りは確かな感覚として、リアルな実感として、死が何たるかを、死の一側面を、力強く示している様にも思われる。

遺された者たちは、死者が経験することができない日々を生きていかなければならない。
だから死から目を逸らさず、半端なルールに従うことで思考放棄することもせず、しっかりと感じ考えるのが使命だと、自分に言い聞かせている。