それは急な坂道を登りつめるように

世の中には色々な小説があるけれど、クライマックスまでの「登り詰め方」がすばらしい小説というのは、やはり僕にとって優れた小説だったんじゃないかなと思う。

個人的にすごく印象的だったのはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、村上春樹の『ノルウェイの森』、ガルシア・マルケス『愛その他の悪霊について』の三つ。
そんなに小説をたくさん読んでるわけではないから偉そうなことは言えないが、とにもかくにもこの三つの小説は文句なしに面白いと思う。

どちらとも、後半に差し掛かるにつれて読者を置いてけぼりにするほどの勢いで、ぐんぐんとストーリーが捻じれていく。
あたかも急な坂道を登りつめるような感じである。
「残りのページ数これだけしか残ってないけど、この後どうなるんだ??」と思う。
しかしあるべき筋なんてものは、遥か遠くに消えてしまっていて、ストーリーそのものがまるで生き物のようにどんどんと奇妙な方向へとずれていく。そして突然に終わる。

個人的には、こういう奇妙な捻じれ方をしていったあげく、ぶつっと終わる小説に巡り合えると結構嬉しい。偏愛しているし、そういう小説はいつまでも覚えている。
なんでだろう。おそらく一種のエクスタシーなのだろう。ポジティブフィードバックというか、LHサージというか。
まあとにかく、こういう話は結構好きだってこと。

小説には読み手の意識をどこか遠いところまで連れて行ってほしいし、僕が本屋に立ち寄るときはそういう期待がある。
神がどうのこうのとか愛がどうしたというのは、後でいい。まず面白さありきである。終わりのないジェットコースターで、遠くまで連れてって欲しいのだ。
いや、まあ、少なくとも僕にとってはだけど…。

思い返してみれば、昔は幸せだった。小学生や中学生の時なんかは、何を読んでも<どこかへ行けた>感じがした。それだけのめり込めたし、夢中になれた。

高校一年生の夏の夜中に読破した『ノルウェイの森』、いまでもあの時のことを覚えている。とにかく物凄い衝撃だった。
心に染み渡るようにすっと入ってくる文章の平易さと美しさ、そしてあのクライマックスのねじれ感・非現実感。
それまで少しは小説を読んでいたけれど、あれほど凍りつくような体験は一度もなかった。小説ってここまでできるのかと、無学な僕は目が開かれるような気がした。

カラマーゾフの兄弟』。これも高校三年生の時から少しずつ読み続けて、『カラマーゾフ万歳!』とコーリャが叫んだのは僕が大学一年生の春、明け方のベッドの上であった。
あれもよかった。これについては言うまでもない。

『愛その他の悪霊について』は、友達から借りていた本で、一人旅をしているときに電車の中で読んだのだった。
最初の幾つかの退屈な章を乗り越えたらやたら面白くて、とにかく夢中で読みまくった。仙台から福島を経て、宇都宮あたりで読み終わったのだ。
あのときの興奮といったらなかった。始発駅から終点までひたすらガルシア・マルケスの世界にのめり込み、ろくすっぽ景色なんて見ていなかった。
終点についたらホームを走って急いで次の電車に飛び乗り、すぐにまたページを開くのだ。あの旅行は楽しかった。

そういえばあの日東京駅で買ったカズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』も、なかなか面白かった。
お金が無かったから、コーヒー一つ頼んで、新宿のマックでぶっつづけで徹夜で読んだのだった。あの話のねじれ感も、また他の作家とは違った味わいがある。

やはり想像力というのは非常に面白いものなのだなと感心する。
なんつーか、あらかじめ敷かれたレールを外れたときに、想像力というのは、まあ主に芸術方面だけど、一番輝くんじゃなかろうか。
人の営みというか、人間の能力のすさまじさみたいなものを、そこに見出さずにはいられない。

無理やり繋げるけれど、最近はまっているツェッペリンのライブのCDも、予定調和を超えたところにあるステージ上の4人の化学反応みたいなものがもう凄まじい。
何度も何度も繰り返し聴いているが、まだ飽きない。

まあ…なんというか、酒を飲みながら文章を書くってなかなかいいですね。
僕は音楽をやらない人間だけど、もしできたら酒を飲みながらほろ酔い気分で演奏してみたい。
その代わりと言っちゃなんだが、自分はこういう風にキーボードを叩いて気晴らししているんじゃないかと思うときがある。
なんの意気込みもなしに思いつくままにただひたすら文章を書くっていうのは、けっこう面白い。

夜に酒を飲んでしかもPCとか、熟睡指数を大いに下げているが…まあ今から寝るか。