少年老い易く。

明日から仕事です。エイプリルフールのネタでもなんでもなく、本当に明日から仕事です。
長かった学生生活。ようやく定職を持つことが出来ました。

ところで仕事仕事という前に、6年間の生活を、学業の点から短く振り返ってみたいと思います。
恥ずかしい話ですが、国家試験を合格した今でも「勉強したなあ」という手応えがないので、医学について僕は何も語る資格はありません。
そんなわけで、6年間を通して漫然と取り組んできた、読書について再び書いていこうと思います。

これはもう、『少年老い易く学成り難し』という有名な格言につきます。流石にもう少年ではありませんが。

自分は昔から読書が好きで、一応【大学では19世紀以降の世界文学を読もう】というテーマを1年生の時に設定し、以降6年間学業そっちのけで文学中心に読み漁っていたのですが、余りに適当に設定されたテーマだっただけに、これはもう地図を持たずにうろうろしていたようなものでした。
興味の赴くままの読書は確かに楽しく、それによって様々な世界を知ることができ、『悪霊』『巨匠とマルガリータ』などの素晴らしい文学に出会えたのは本当に幸福なことでしたし、ある意味これらの作品が僕にとっての大学でした。しかし他者に何かを提供できないのならば結局のところ道楽の範疇を超えない、ということにも時の流れとともに気が付いてしまいました。残念ながら。

具体例を挙げるとすれば、
「あなたはドストエフスキーの小説をずいぶん読んだようだけれど、ロシア革命ドストエフスキー文学の関わりについて何か教えてくれませんか?」
ミハイル・バフチンの唱えたポリフォニーとカーニバル文学は、その後文学界にどういった影響を与えたのでしょう?」
と聞かれたら、僕はたちどころに答えに窮すると思います。つまりは、そういうことです。

これは僕が考える教養のカタチとは全然逆でした。そして「なぜオレはあんなムダな時間を…」という某バスケ漫画の1シーンが頭に思い出されるわけです。

そしてこういう読書のあり方を続けていくようなら、何の見返りもなくたんまりと時間を提供してくれた過去の自分に対して、責任感が乏しいと感じました。
仕事が始まると、無駄な読書をしている時間などあるのだろうか、という危機感が少々でてきたせいもありますが…。

なので今後は乱読を控え、方向性を持った読書をしていきたいなーと思いました。
まあこれは読書に言えたことではなく、学問一般にも言えるのかなと。

こんなことを、「ああ、俺ってなんて真面目なんだろう」と、アイスを食いながら考えていたわけです。



しかしここで疑問を持たれる方もいるかもしれません。乱読ってそんなにいけないことなのか、と。

事実自分という人間の知識は、乱読によって多方面から寄せ集めたフラグメントがモザイク状に組み合わさることで成立してきた(気がする)のです。そういった知識のあり方には、ある程度、強みがあるにはあると思います。
読書はもう学校の勉強なんかでなく、大切な趣味の時間なんだから、そんな風に縛り付けるのは「自由」を奪うことに他ならないんじゃないか、とも言えます。

まあこの辺は、実際のところよく分かりません。でも、仏語習得やテニスの練習や医学の勉強ではなく、他ならぬ「読書」という(極めて曖昧な)行為によってある方面の自己変革と成長を望むのならば、それは少々呑気なスタンスだったかもしれません。
乱読によって教養を身につけることは、ほぼ不可能なんじゃないかと僕は結論しました。というか、僕にとっては、無理でした。
無理というか、いろんなところにゴツゴツと頭をぶつけながら本を選んでは読んだ(そして引越しで大量に処分した)結果、そういう結論が導き出されました。

「何を当たり前のことを」という感じかもしれませんが、本を読むという行為はもはや自分の生活の根幹をなす行為だっただけに、というかそれだからこそ、そこに潜んでいた自己欺瞞に気が付きませんでした。完全に言い訳ですが。


そのうえ、読書にかまけて本業の医学を疎かにしていたがために、ある意味で非常にもったいない時間を過ごしてしまったとも感じています。
それで漠然と過ごした6年間を振り返って、『少年老い易く学成り難し』だったよなあ、と感じるわけです。

大学を卒業した自分にとって「次」がいつかは分かりませんが、もうこういう反省はしたくないものです。
でも、理屈だけでない確かな手ごたえのある、自分にとっては大事な発見でもあります。

ずいぶんと抽象的な話になりました。話に具体性が欠ける傾向っていうのも、あんまりよくないですね。
というわけで、明日から張り切っていきたいとおもいます。