シュルレアリスム展:国立新美術館(2)
まあ『シュルレアリスム展』を擁護するのはこのあたりで。
以下は、観ていてふと感じたこと。
何かをゼロから作り上げるクリエイターに対する尊敬の念は忘れ、今しばらく勝手気ままに書いてみよう。
色々な方々、ごめんなさい。
シュルレアリスムを真に理解して実行できた絵画は本当に一握りだったのだな、と思った。
逆説的だが、シュルレアリスムを体現できた作品は、押しなべてシュルレアリスムという主義の枠外にいる気がする。
ざっくばらんに言うと、ああした芸術運動は≪ダダイズム≫なり≪シュルレアリスム≫なりといった『言葉』あるいは『宣言』があって、そこからスタートしている。
そのせいか、シュルレアリズムを名乗る多くの絵画は≪シュルレアリスムであること≫に囚われすぎていた。
だから鑑賞者には『ああ、こういうのっていかにもシュルレアリスムだよね』と感じてしまう。
するとアーティストがその絵画に期待した、美に対する既成概念の転換だとか、驚きだとか不快感、あるいは夢や超現実の可能性というものが、非常に矮小化された作り物として捉えられてしまう。
美が驚きと言うのなら、シュルレアリスムが有名になりすぎた現代は彼らにとって不遇な時代だ。
非常に主観的で感覚的な説明になってしまって申し訳ないのだけど、言葉やら宣言やらといった限定された枠組みの中で絵画を追及していると、そこから生まれる作品はだんだんと痩せていくし、したがってあまり面白くない。
というのも、真の意味での自発性やオリジナリティが欠如してしまうからだ。
もちろん彼らはシュルレアリスムを標榜することによって絵画の可能性を広げることができたのだから、別に○○主義はそんなに悪いことではない。
だがなにかにあまりに縛られてしまうことは、芸術の一番素晴らしい部分を損ねてしまう。彼らが否定しようとした『主義主張にがんじがらめになった古臭い芸術』に、彼ら自身もまた陥ってしまったのではないだろうか。
物悲しいことに、絵画が訳わからなくなるほど、いかにも説明的かつ説教的なタイトルが付けられてゆく。芸術とはそんなに教条的なものなのだろうか?
まあ散々文句ばっかり言ったが、でもやはり彼らの業績は偉大だと思う。
何せ絵画の既成概念を「ぶっ壊し」「絵画の可能性を押し広げる」ことができたのだから。
やっぱり外野から何かをけなす、批評するっていうのは、いい気持になるものではないですね。
もっと建設的でポジティブな何かを書きたいものですなあ。